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1.日本の浮標式ほ、昼間は塗色、トップ・マークにより、夜間は灯質(灯色・光り方)により標識の意昧が容易に判別がつくように |
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1.左げん標識は、航路又は可航水域の左側 |
1.右げん標識は、航路又は可航水域の右側(水源に向かって |
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その1 |
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(3)八代海における水源は、三角港です。 |
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注意 |
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●一方通航路における水源 |
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●海図の中での水源の方向を示すマーク |
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例外的なものとして特定標識があります |
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外国ヘ行く船のために |
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世界の浮標式地域図 |
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設置例 |
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海図では・・・・・・ |
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I.Y.F.R.神戸フリート第2回 定例会資料
2017.1.19
メリケンパーク
オリエンタルホテルに於いて
2015-2017
神戸フリート コモドア
宮 昭久
「瀬戸内海はどこからどこ?」
「大阪湾は瀬戸内海?」
「海峡・瀬戸・水道・灘って?」
目次
海上保安庁5.6.10管区区域図・担当水域 |
2~3 |
瀬戸内海海図 |
4~7 |
海峡・瀬戸 |
8 |
水道・灘 |
9 |
瀬戸内海 |
10~23 |
瀬戸内地方 |
23~26 |
畿内 |
27~ |
紀伊水道 |
29 |
大阪湾 |
31 |
播磨灘 |
34 |
備讃瀬戸・備後灘 |
35 |
燧灘・安芸灘 |
36 |
広島湾・伊予灘 |
37 |
周防灘 |
38 |
豊後水道 |
39 |
響灘 |
40 |
豊予海峡 |
41 |
鳴門海峡 |
43 |
海峡
海峡(かいきょう)とは、陸地によって狭められている水域のこと。日本語では「海」の一字が含まれるが、必ずしも海に限ったものではない(五大湖のスペリオル湖とミシガン湖結ぶマキノー海峡など)。
同義語に「瀬戸」と「水道」がある。これらの語に意味上の本質的な違いはなく、同じ海域について別の語を用いた別称や副称をもつものもある。上記のマキノー海峡のように湖にある場合は「湖峡」ということもある。
海上交通路が絞られるポイント(チョークポイント)である海峡は、その確保や制限(海上封鎖)のために、軍事・国際政治上の焦点となることも多かった。
生物地理学
陸上生物の移動は往々に海によって阻害される。そのため、海峡は陸上生物の分布の境界となることが多く、いわゆる分布境界線は海峡に引かれることが多い。生物区系の境界も海峡であることは多い。ベーリング海峡は旧北区と新北区を区切る。
日本の海峡
瀬戸
瀬戸、瀨戸(せと)
水道 (地理)
水道(すいどう)とは、海において陸地が両側に迫って狭くなった通路状の箇所のこと。水の流れる道、あるいは船の通り道という意味。 同様の言葉に海峡や瀬戸があるが、これらの間に本質的な違いはなく、同じ海域について海峡・水道・瀬戸の複数の名称を有するものもある(豊予海峡と豊後水道と速吸瀬戸(ただし、豊後水道は豊予海峡南側の海域を指す場合もある)、朝鮮海峡と対馬海峡西水道、ドーヴァー海峡とイギリス水道など)。 また、行政上は河川であるが、慣習的に水道と呼ばれている水域も存在する(境水道)。
主な水道 「水道」と呼ばれることの方が多いものを挙げる。(五十音順)
灘
灘(なだ)は、沖合の中で波が荒く、潮流が速い所を指す。洋とも書き表される。さんずいに難という字の如く、古くから航海が困難な場所とされ、そのため沿岸には避難港が発達している。とりわけ、黒潮(日本海流)が流れる太平洋側に多く分布する。その反面、鹿島灘以北の太平洋岸には全く灘が見られない。これは、灘という地名の由来が、海運交通の発展と関係が深いと思われる。一方、瀬戸内海にも灘が多数分布する。だが、この灘は穏やかな水域が多く、本来の定義から大きく反する(後に詳述)。
海流の影響による灘
このタイプの灘は遠洋に多い。灘が太平洋側に多いのは主に黒潮(日本海流)の影響である。相模灘、遠州灘、熊野灘、日向灘はこれらに該当する。一方、日本海に面する玄界灘や響灘は対馬海流の影響である。マグロ、カツオなどの回遊魚などは海流に乗って移動するため、一帯は好漁場となりやすい。
瀬戸内海の灘
瀬戸内海や豊後水道にも灘が多く分布する。しかし、これらは洋上のものとは逆に、水面が穏やかなものが多い。これは、灘には、風や波が荒く、航海が困難な場所という意味のほか、陸地の沖合で島が少ない地域を指すことがあるためである。また、神戸市東部の灘五郷の地域に代表されるように、目の前に海原が広がる一帯に灘という地名が付けられている事例がある。よって、瀬戸内海を航海中は、至る所に小島が見られるが、灘と呼ばれる場所は島が少ないことから、海原を表す「灘」と名付けられたと考えられる。海上保安庁の見解では、航海に注意を要する狭い海域と認識されている。
日本の灘 海上保安庁の水路図示に記載されている14か所は太字で記載。
瀬戸内海
瀬戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、 徳島県、 香川県、愛媛県、大分県 、福岡県 がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。
古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。
瀬戸内海 写真上は北東方向。左下に見える九州、中央に見える四国(島)、左中央から右上に見える本州にはさまれている
東西に450km、南北に15-55km、平均水深:約31m、最大水深:約200m(豊予海峡および鳴門海峡)の内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られている。 医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833年 - 1905年)の『支那旅行日記』により「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と世界中に紹介され[1]、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である[2]。
「瀬戸内海」の誕生」
瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされる。それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記『海陸道順達日記』では尾道と下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。
「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半に広まっていったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。
日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。本論の中で、小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。また、小西は「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、後に帝国議会に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて国立公園法が制定されたのは1931年で、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙(現・雲仙天草国立公園)、霧島(現・霧島錦江湾国立公園)とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となった[3]。
海域
IHOが定める範囲
国際水路機関(IHO)が1953年に発行した『大洋と海の境界』において、瀬戸内海は英語版でSeto Naikai or Inland Sea、仏語版でMer Intérieure (Seto Naikai)と表記され、その範囲は次のように定義されている[4][5]。
法令が定める範囲
瀬戸内法と瀬戸内法施行令による瀬戸内海の範囲。面積 2万1,827km2
瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり複数の法令で範囲が定義されている。
領海及び接続水域に関する法律施行令(領海法施行令)第1条
一 紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線
二 佐田岬灯台(北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線
三 竹ノ子島台場鼻(北緯33度57分2秒、東経130度52分18秒)から若松洞海湾口防波堤灯台(北緯33度56分28秒、東経130度51分2秒)まで引いた線
※国際的にはこの範囲が瀬戸内海とみなされる。
※西端は関門海峡の西端である。関門海峡の全域と洞海湾は瀬戸内海に含まれる。
瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)第2条第1項
次に掲げる直線及び陸岸によつて囲まれた海面並びにこれに隣接する海面であつて政令で定めるものをいう。
二 愛媛県佐田岬から大分県関崎灯台に至る直線
※「政令」とは次に挙げる「瀬戸内海環境保全特別措置法施行令」のこと。
※西端は関門海峡の最狭部(東端に近い)である。関門海峡の大部分と洞海湾は一~三の範囲に含まれない。
瀬戸内海環境保全特別措置法施行令 第1条
二 (略)山口県特牛灯台から同県角島通瀬埼に至る直線、同埼から福岡県妙見埼灯台に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
※瀬戸内法の一~三の範囲に追加される。
※早吸瀬戸と関門海峡の外側のかなりの範囲が瀬戸内海に含まれる。
海上交通安全法施行令 第1条
紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線及び佐田岬灯台(北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線
※西端は言及されていない。
漁業法施行令 第27条
一 和歌山県紀伊日ノ御埼灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬灯台に至る直線
二 愛媛県佐田岬灯台から大分県関埼灯台に至る直線
三 山口県火ノ山下潮流信号所から福岡県門司埼灯台に至る直線
※瀬戸内法の一~三とほとんど同じ。
このような法律上の海域設定とは別に、海域が最も狭くなる鳴門海峡と明石海峡を瀬戸内海の東端と見ることもある。この用法は、両海峡や淡路島に関する記述で多い。この場合、大阪湾と紀淡海峡は瀬戸内海から除外され、紀伊水道は太平洋に含めることもある。
区分
瀬戸内海は複数の海域で構成されている。
『領海及び接続水域に関する法律』では東側から順に次に掲げる10区分された海域で構成されている。
紀伊水道 大阪湾 播磨灘 備讃瀬戸 備後灘 燧灘 安芸灘 広島湾 伊予灘 周防灘
『瀬戸内海環境保全特別措置法』では前記10区分に次に示す海域を加えた計12区分で構成される。
上記の12区分された個々の海域を示す明確な基線(境界線)は存在しない。
生物相
汚染と環境破壊が進んだ現在でも天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリやハセイルカ(近年、伊勢湾や大村湾など、瀬戸内海以外にもスナメリの生息地として知られる諸々の海域に本種の再定着が確認されてきている)などの海洋生物や、アユを初めとする400-500種類を越す魚類が生息している。天然記念物に指定されている種類も多く見られ、前述のカブトガニのほか広島県三原市有竜島はナメクジウオの生息地として、また、同県竹原市高崎町阿波島周辺は『スナメリクジラ回遊海面』として1930年に登録されている。
鳥類ではとくにカンムリウミスズメが注目されており、長島をはじめ現在でも比較的広範囲にて確認できる。
豊富なアマモ場も本来の瀬戸内海の生態系の重要な一部であり、1960年代に20,000ヘクタールを超す群生域が当海域に広く見られたが、1978年の時点では7,000ヘクタール程度に減少し、環境汚染など様々な要因により、その後の顕著な増加は見られない。近年、各地で藻場復元の動きがあるほか、芸予諸島には比較的良好な分布が残されている。
2015年1月には、新種であり固有種のカタツムリ「アキラマイマイ」が発見されている。
大型生物
現在の状況からは想像しがたいが、かつてニホンアシカやクジラ、ウミガメやサメ類の一大生息地でもあり、沿岸性であるコククジラ[12]やセミクジラ、ウバザメやジンベイザメ、ホホジロザメ、オニイトマキエイ、マンボウなどの大型魚類[13]やオサガメなど、現在では絶滅危惧種となっている大型の生物も多く見られたとされ、たとえば周防灘や別府湾などは鯨類にとって育児海域になっていたとする意見も存在する。瀬戸内海の各地に小規模な捕鯨会社が設立されるなどの狩猟と漁業による圧力や、高度成長期に急速に拡大した護岸ふくむ沿岸開発と環境破壊や汚染などの経緯を経て、これらの動物は瀬戸内海からは江戸時代から昭和時代初期にかけて激減または地方絶滅を迎えた。前述の絶滅危惧種はほぼ消え去ったが、たとえば他種のクジラならば現在でも稀に迷入することがある。
鯨類のほか、ニホンアシカは20世紀初頭まで鳴門海峡を含む瀬戸内海各地に見られ、ニホンカワウソも1975年まで棲息が確認されていた。また、陸生ではあるがニホンジカやニホンイノシシが瀬戸内海を泳いで縦横断する光景は古来より見られてきた。
アカウミガメやアオウミガメ]も激しく減少したが、現在も回遊は続いている。明石市の望海浜などの産卵場が最も有名だが、戦前は瀬戸内海各地にこのような産卵場が存在し、近年でも大阪府沿岸や淡路島などでも確認されている。しかし、定期的な繁殖場として機能しているのは依然明石沿岸のみである。オサガメは2002年や2003年に発見されている。 2002年の確認は産卵との情報があるが、これまで日本で唯一の産卵の確認例は奄美大島のみである。
地理 地形
瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海である。平均水深は31mであり、全体的な傾向としては東に行くほど浅い。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されている。最深部は豊予海峡(速吸瀬戸)で約195m、鳴門海峡では約200mと考えられている。
強い潮流
瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2m以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。この強力な潮流により「鳴門の渦潮」が発生している。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。
主要な島
瀬戸内海には大小あわせて3,000もの島があり、無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する。
主な瀬戸内海の島を以下に示す。
主要な流入水系
流域面積1,000km2以上の流入水系は以下の通り
紀伊水道 : 紀の川、吉野川 大阪湾:淀川、大和川 播磨灘:加古川
備讃瀬戸:吉井川、旭川、高梁川 広島湾:太田川 伊予灘:肱川、大野川
橋
本州と四国を道路・鉄道で結ぶ橋または道路として瀬戸内海上に本州四国連絡橋が架かり、以下の3ルートがある。
航路
歴史
先史時代
1600万年前
日本列島がユーラシア大陸から分離。古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していた。この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は備北層群と呼ばれている。
1,400万年前から1,000万年前
二上山、室生、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。
7万年前
ウルム氷期始まる。現在は瀬戸内海である一帯にはステゴドンやナウマン象が住んでいた。また広島県の情島で、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。
1万年前
氷河期が終わり気温が上昇。海水面も上昇し、6,000年前までに現在のような瀬戸内海が形成された。
古代
古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。そのことは『魏志倭人伝』の記述や『日本書紀』の国産みの段でイザナミの産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。
古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した古代港の住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であったことから、瀬戸内海は、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。またこの頃既に鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。
奈良時代には陸上の交通路(山陽道や南海道)が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。
平安時代中期は、嵯峨源氏の渡辺綱を棟梁とする摂津国の渡辺党が瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁となり、渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏が九州の水軍松浦党の惣領となる。
藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし(承平天慶の乱)、瀬戸内海は、純友の活動舞台となる。伊予国の警固使の橘遠保が純友を捕らえる。
平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりした。
中世
鎌倉時代から戦国時代にかけては、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちが瀬戸内航路に勢力を張り始め、河野氏や村上氏らは海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内航路を制御下においた。
近世
豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力が排除され、回船商人らによる西廻り航路の一部(関門海峡~大坂)として、瀬戸内海は流通の主役の務めを果たした。幕末には、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海していた[32]。1864年(元治元年)には,下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海が封鎖された際には、これを原因として馬関戦争(長州藩の砲台と英仏蘭米艦隊との戦い)が起きている。
近代
明治時代以降は鉄道開通などの本州・四国内交通網の整備、本州・四国間に瀬戸大橋の開通に至って、以前より交通路としての重要性は薄れたが、大正時代には阪神・別府間などに観光航路が開設され、戦後の観光ブームにも多くのクルーズ客船が往復し賑わいを見せていた。その後航路の主役はフェリーに移行したが、平成に入っても無数の定期航路が存続している。また、環瀬戸内文化圏という観点から、瀬戸内海を文化交流の場としてとらえ直す試みも行われている。
歌枕の地
古代から瀬戸内海は風光明媚な海として知られ、沿岸には『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』などに登場する歌枕が点在している(住吉、難波、須磨、明石、高砂、布引、生田)。
中世日本文学と瀬戸内海
中世になると『伊勢物語』『土佐日記』『源氏物語』『山家集』などの文学作品が瀬戸内海を取り上げたことで、作中に登場する土地が名所となっていく。
寺社詣で
庶民の観光旅行が一般化した近世には、『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などに登場する古戦場(屋島や壇ノ浦、牛窓、藤戸など)が観光名所として注目されるようになる。また金比羅宮、石鎚山、住吉大社、厳島神社、宇佐八幡宮、大山祇神社などへの参拝も盛んになる。瀬戸内海各地の名所は『諸国名所百景』などの浮世絵にも頻出する。さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする観光産業(旅籠、茶屋、土産物屋など)が丸亀や多度津、下津井、宮島などに成立し、繁栄を見せるようになった。
またこの時期、朝鮮通信使が鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されている。
近代観光の目的地へ
19世紀になると、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が来日し、近代的な「観光のまなざし」(この概念についてはジョン・アーリを参照のこと)によって瀬戸内海を再編していった。すなわち近世以前の瀬戸内海観光が文学作品を媒介とした「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝という形式を持っていたのに対し、欧米人は瀬戸内海各地で(当時)当たり前のように見られた風景(多島海、段々畑、白砂青松、行き交う和船など)に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていった。言い換えるならば、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していったのである[33]。
更に1912年(明治45年)5月には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製の貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となった。1934年(昭和9年)には前述のように日本初の国立公園の一つとなる。
また戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航、その後3,000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだ。
バブル経済と乱開発
1987年の「総合保養地域整備法」制定に伴う日本列島のリゾート開発ラッシュは瀬戸内海も例外とせず、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設された。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもあった。また、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発は中断され、開発中途で放棄された土地も発生した。
現在の瀬戸内海観光
1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に登録された。また1999年に本四架橋が全て完成すると、尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとして注目を浴びるようになった。
産業
日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、重工業、石油化学産業などが多く立地している。全国に占める製造品出荷額は鉄鋼業46%、石油化学産業40%、化学工業35%、パルプ・紙産業30%と工業化が進んでいる地域であるが、これら第二次産業の総生産額に対する比率は年々減少している。比率がもっとも高かったのは1970年で42.6%であったが、2002年には25.4%まで下がった。農林・水産業など第一次産業は、1965年には7.4%であったが、2002年には0.8%となっている。比率が増加しているのは、運輸・通信、卸・小売、金融・保険業、サービス業などの第三次産業で、1965年には52.6%であったが、2002年には73.8%となっている。人口の密集度や産業の多さから古代より海運が発達していた。漁業も盛んであったが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少した。
各地で埋め立てが行なわれ、藻場、干潟、自然海岸などの浅海域が減少しており、閉鎖水域であるため下水道や油流出事故などの影響で赤潮発生など水質汚染が憂慮されている。
瀬戸内海は重要な水路として海運や漁業で多くの船舶が運行しており、近年はレジャーボートの数も増し、多島部や狭い水域では海難事故も多発している。
漁業
江戸以前の漁業
瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場となってきた。弥生時代には既にタコツボによるタコ漁が行われていたことも、出土物によって明らかになっている。
江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んとなった。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていた。これらの漁法は瀬戸内海にとどまらず、房総半島などにも伝播した。また瀬戸内海の内部でも、紀州で考案されたイワシの船引き網漁法が真鍋島、宇和島、安芸草津など各地に伝播したことが知られている。
大物を狙う一本釣り漁も江戸時代に発達した漁法である。これは主に潮流の早い瀬戸を中心に行われた漁法で、鯛、ハマチ、カレイ、サワラなどを対象とした。一本釣りの発達を促したのは、中国から輸入されるようになった天然のテグスの存在である。これを最初に一本釣り漁に用いたのは、現在の鳴門市にある堂浦の漁民であったが、この漁法が17世紀後半に現在の周防大島町にある沖家室島に伝播し、沖家室島は瀬戸内海有数の一本釣り漁の基地として栄えた。現在も大物釣り用の釣り針の基本的なデザインである「かむろ針」は沖家室島で考案されたものである。その他、佐賀関、音戸、三津浜、牛窓、雑賀崎などが一本釣り漁で有名な漁村である。
こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却された。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれた。広島のカキも江戸時代には関西に広く流通していた。
瀬戸内海の漁民の国外出漁
明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて日本国外に出漁する事例が増えていった。山口県や広島県の一本釣り漁師たちは台湾、ハワイなどに渡り、打瀬網を使う漁民はフィリピンに出漁した。森本孝は沖家室島の漁民がハワイの漁業の屋台骨を担った状況を明らかにしている。また日本国内でも、周防大島の漁民が対馬に集落を建設して移住した事例が宮本常一によって報告されている。
家船
瀬戸内海は、20世紀後半まで家船(えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られている。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことである]。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かった。彼らの出自については、豊臣秀吉によって解体された村上水軍の末裔なのではないかとの説もある。
別府温泉では、持ち舟で寝泊まりしながら浜脇温泉や別府温泉に通う湯治の習慣が古くから見られ、戦後しばらくまでは続いていた。春には波止場に係留される舟は100艘近くにのぼり、湯治舟とよばれて季語にもなるほどの別府の春の風物詩となっていた。
乱獲と漁業資源の減少
第二次世界大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達した。しかしその後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況である。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊された為に激減しており、ハマグリはほぼ絶滅となっている。
カキ、ブリ、タイ、ワカメ、海苔などは養殖も盛んに行われている。広島でのカキの養殖は室町時代までさかのぼる。
ブランド品
佐賀関で上がる「関アジ」「関サバ」、明石で揚がる「明石鯛」「明石蛸」、鳴門のタイ、日出の「城下カレイ」、下関のトラフグなど、全国的なブランド品となっている品目も瀬戸内海には存在している
。
農業
段々畑
瀬戸内海に浮かぶ離島は耕作可能な平地も少ないことから、住民たちは山を開墾して段々畑を作ることが多かった。しかしこうして開墾された段々畑は土壌が痩せていることが多かった為、農民たちは下肥や海藻を人力で運び上げて施肥し、土壌を改良していった。一般に、開墾してからまともな作物が収穫出来るようになるまでに10年かかるとされた。
出作
島内の山を全て開墾し尽くした後には、近くにある島に渡ってそこで開墾を行うこともあった。こうして別の島に農地を持つことを「出作」「出作り」「渡り作」などと呼んだ。農民たちは出作用の小さな木造船(農船)を手に入れ、それで農地を持つ島まで行き来していた。
柑橘栽培
このようにして開墾された段々畑は、第二次世界大戦後、多くが柑橘類の栽培に転用された。日照と水はけに優れた段々畑は、糖度の高い柑橘の栽培には適していた。しかし段々畑での農業には非常に手間がかかることから、近年、耕作放棄地が増加しつつある。
綿花栽培
瀬戸内海沿岸の気候は綿花栽培にも向いていた為、江戸期には各地で綿花栽培が行われた。特に綿花栽培が盛んだったのは河内地方、播磨地方、岡山平野、福山周辺、広島周辺、観音寺周辺などである。しかし明治期に海外産の良質な綿が輸入されたことで、これらの地域の綿花栽培は衰退した。
除虫菊栽培
18世紀末に日本に移入されたシロバナムシヨケギク(除虫菊)は、20世紀に入ると広島県で盛んに栽培されるようになり、島嶼部も含めて第二次世界大戦後まで除虫菊栽培は農業の中心となった。
製塩業
瀬戸内海沿岸は古代より製塩が盛んな地域である。弥生期には吉備地方で土器に海水を入れて煮詰める製塩が始まり、奈良期には砂浜を使う「塩尻法」へと移行する。中世にはこれが揚浜式塩田に移行、更に17世紀前半には姫路藩で入浜式塩田が使用されるようになり、瀬戸内海は製塩の中心地となる。この時期の瀬戸内海産の塩を「十州塩」とも呼んだ。これは播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予の10国で生産された塩という意味である。
こうした製塩業は1971年に一時全て途絶えたが、2002年に塩の販売が完全自由化されると、仙酔島などで小規模ながら製塩業が復活した。
製塩業と白砂青松
製塩業は大量の燃料を消費する産業である。瀬戸内海沿岸は製塩が盛んであったため、燃料としての木材を供給した里山は次々にはげ山となっていった(詳しくは里山を参照)。瀬戸内海に白砂青松が多かった理由の一つとして、こうしてはげ山となった里山から花崗岩が浸食により流出し、川を流下して瀬戸内海に入り「白砂」となったという指摘がある。
工業
太平洋ベルト工業地域の一角を担う瀬戸内工業地域を形成し、全工業地域総出荷額のおよそ9%を占める。西部は北九州工業地帯を形成し、東部は三大工業地帯の一つである阪神工業地帯を形成している。
また海の中の離島であることを生かし、亜硫酸ガスによる煙害で批判を浴びていた銅精錬業が瀬戸内海に進出した。三菱マテリアルの直島、住友金属鉱山の四阪島など。
環境問題
赤潮
1970年(昭和45年)から1976年(昭和51年)にかけて赤潮の発生件数は約80件から約300件と上昇し、その後徐々にではあるが減少傾向にあるものの2002年(平成14年)の発生件数は約100件が確認されており、同年の発生海域は大阪湾・紀伊水道・播磨灘の淡路島の対岸域・燧灘の愛媛県域・広島湾・防予諸島・周防灘等である。赤潮の発生に伴い養殖のハマチ・タイ・真ガキの他、天然魚介類の漁業被害が起きている。
1992年(平成4年)8月27日に環境庁告示第67号により、海水中の窒素や燐が海洋プランクトンに対して影響を与え、著しく増殖を生ずる畏れのある海域として閉鎖性海域として指定され、赤潮を始めとして2004年(平成16年)と2005年(平成17年)には発生原因が不明の藻により底引き網漁などの漁獲に打撃を与えている。
瀬戸内海の栄養塩問題
瀬戸内海は1960年代から1970年代にかけて富栄養化による赤潮が発生しており、1973年に瀬戸内海環境保全臨時措置法が制定されCOD、窒素・リンの排出規制が導入された。これにより瀬戸内海の赤潮発生が減少するとともに海の透明度も増してきた。その一方で藻場の減少や海苔の色落ちが頻発し、関係性は不明ながらも漁獲資源の減少も起こっておりこれらを「栄養塩の過度な減少」(いわば富栄養化の逆の『貧栄養化』状態)が原因ではないかと主張する研究者も存在する。反論としては漁獲量減少は乱獲が主な原因であるという意見もある。瀬戸内海への栄養塩の減少や干潟の減少は、ダムの建設やコンクリートによる河川の整備による土砂や栄養塩の瀬戸内海への流出の減少が原因であるとも指摘されている。2015年10月2日に瀬戸内海環境保全特別措置法が改正、同年2月に瀬戸内海環境保全基本計画が変更され従来の瀬戸内海の「水質を保全」する考え方から「水質を保全・管理(地域性や季節性に合わせて水質を管理)」する考え方に改め、干潟や藻場の再生を行っていくなど瀬戸内海を取り巻く環境を整備することで生物多様性・文化的に「豊かな海(里海)」へすべく調査・研究・対策が行われることになった。
瀬戸内地方 (せとうちちほう)は日本の地域を指す通称の一つである。本州西部・四国・九州に囲まれた瀬戸内海の沿岸地域を指す。通称、瀬戸内(せとうち)。
概要
一般には、広義の山陽(兵庫県の播州地方及び岡山県、広島県、山口県)と、四国北岸の香川県と愛媛県を指す(兵庫県淡路島・徳島県も含む場合もある)。 なお、福岡県の北九州地区・京築地区と大分県を含む場合もある。
一年を通じて瀬戸内式気候と呼ばれる。夏は四国山地に、冬は中国山地によって季節風が抑えられるので、年間を通して温暖で晴天が多く雨量は少ない。積雪も年に1~2回程度は起こるが、山間部を除いては大雪になることは稀である。日本海側に対し、内海の瀬戸内海側では波は穏やかである。
沿岸部は重化学工業をはじめとして工業が発達しており、瀬戸内工業地域と呼ばれる。
瀬戸内海式気候
大阪市の雨温図 瀬戸内海式気候の地域(3:黄色)
瀬戸内海式気候(せとないかいしききこう)とは、日本の気候区分の一つである。瀬戸内式気候(せとうちしききこう)や瀬戸内海型気候とも呼ばれることがある。主に瀬戸内地方で見られる。
特徴
夏の季節風は四国山地に、冬の季節風は中国山地によって各々遮られる。このため年間を通じて天気や湿度が安定しており、降水月が5、6、7月(梅雨時)と9月(秋雨・台風時)の二峰性となっており、二峰の間の8月(盛夏)の降水量が著しく少なく雨温図上大きく凹むことが最も顕著な特徴となる。年間を通した降水日数(1mm以上の降水が観測される日数)も、梅雨(梅雨に類似する気象現象を含む)を除いて少ないのが特徴で風向によって降水日数に増減がある太平洋側気候・日本海側気候の地域と事情が異なる。降水量は年間1000~1600mm前後である。夏に雨が少ない時には、旱害が起こる事もある。その対策として、農地に隣接した土地にため池を作ることが古くから行われた。また太平洋側、日本海側の山に降った雨が川を通して流れてくるためダムを作ること(徳島県北部、香川県における吉野川)や上流域にある天然の湖沼の利用(近畿地方における琵琶湖など)によって水不足に対応できる。宅地化や利水の改善の結果でため池は減少傾向にあるが、現在も大阪府の泉州地域、兵庫県の東播磨地域や淡路島には大小様々な溜池が(その本来の用途を失っているものも含めて)存在している。その他、香川県には山地が少なく水がよく不足するため多くのため池があることで知られている。ケッペンの気候区分では温帯夏雨気候に該当する地域も存在する。
特に岡山県岡山市では1989年以降、降水日数が全国の県庁所在地では最少であるため「晴れの国」をキャッチフレーズにしている。九州の有明海沿岸部も温暖で降水日数も少なく、瀬戸内海式気候に近い気候である。
比較的温暖な気候であるが、日本海に直接面する地域、または中国山地のブロックが弱い地域に当たる福岡県北九州地方、大分県北部、山口県南部、愛媛県西部などは北西の季節風の影響で冬季の降水日数が日本海側ほどではないものの他の瀬戸内側の地域に比べて多く、日本海側気候の特徴がややみられる。また、中国山地の山麓となる広島県南西部の広島市周辺でも、冬季の降雪日数は他の瀬戸内沿岸地域に比べるとやや多くなっている。
降雪量及び降雪日数は、瀬戸内海の沿岸部では比較的少ないが、山沿い(特に讃岐山脈・石鎚山地)では積雪量は多くなり、多くの道路は路面凍結する。
また、和歌山県北部、徳島県北部は南海型太平洋側気候との、福岡県北九州地方、大分県中部は九州型太平洋側気候との、京都府南部、奈良県北部、滋賀県南部は、東海型太平洋側気候または中央高地型内陸気候との、それぞれ境界(遷移地域)となっている。
瀬戸内海式気候の地方
地形等の関係で下記地域でも他気候を示す地域があり、逆に下記地域以外でも瀬戸内海式気候を示す地域がある。
気候のデータ
気象庁・気象統計情報より 降水日数は1mm以上
瀬戸内海式気候が明瞭な地域
瀬戸内海周辺で降水日数の最多月が冬季以外、最少月が冬季の地域。梅雨時と秋雨時以外の降水量は盛夏時を含め少ない。
最多月降水日数 |
最少月降水日数 |
年間降水量 |
最多月降水量 |
最小月降水量 |
8月降水量 |
年平均日照時間 |
|
大阪 |
11.2(6月) |
5.5(12月) |
1279.0mm |
184.5mm(6月) |
43.8mm(12月) |
90.9mm |
1996.4時間 |
和歌山 |
11.0(6月) |
5.2(12月) |
1316.9mm |
188.6mm(7月) |
44.4mm(1月) |
86.0mm |
2088.8時間 |
神戸 |
10.9(6月) |
4.7(1月) |
1216.2mm |
181.6mm(6月) |
37.8mm(1月) |
90.9mm |
1995.1時間 |
姫路 |
11.1(6月) |
4.6(12月) |
1199.0mm |
167.0mm(7月) |
35.9mm(1月) |
95.9mm |
2032.6時間 |
洲本 |
11.5(6月) |
5.6(12月) |
1406.6mm |
200.8mm(6月) |
45.6mm(1月) |
106.9mm |
2066.8時間 |
岡山 |
10.4(6月) |
4.2(12月) |
1105.9mm |
171.5mm(6月) |
31.0mm(12月) |
87.4mm |
2030.7時間 |
玉野 |
10.7(6月) |
5.3(12月) |
1003.9mm |
145.1mm(6月) |
30.8mm(12月) |
74.8mm |
2126.4時間 |
高松 |
10.3(6月) |
6.2(12月) |
1082.3mm |
150.6mm(6月) |
37.3mm(12月) |
85.8mm |
2053.9時間 |
福山 |
10.2(6月) |
4.2(12月) |
1117.2mm |
176.7mm(7月) |
31.0mm(12月) |
83.0mm |
2096.1時間 |
大三島 |
11.1(6月) |
5.0(12月) |
1123.2mm |
180.6mm(6月) |
37.0mm(12月) |
74.4mm |
2009.8時間 |
松山 |
11.5(6月) |
6.4(12月) |
1314.9mm |
223.6mm(6月) |
46.0mm(12月) |
89.6mm |
2017.1時間 |
呉 |
10.4(6月) |
4.2(12月) |
1381.3mm |
227.7mm(7月) |
35.6mm(12月) |
97.1mm |
2051.0時間 |
広島 |
10.7(6月) |
4.9(12月) |
1537.6mm |
258.6mm(7月) |
41.2mm(12月) |
110.8mm |
2042.3時間 |
太平洋側気候(九州型)が少し加わる地域
瀬戸内海周辺で降水日数の最多月が夏季、最少月が冬季以外で、春から梅雨時の降水量が顕著に多い地域。冬季は日照時間がやや少なく、降雪も少なくない。
最多月降水日数 |
最少月降水日数 |
年間降水量 |
最多月降水量 |
最小月降水量 |
年平均日照時間 |
|
山口 |
11.6(6月) |
6.2(10月) |
1886.5mm |
323.2mm(7月) |
58.7mm(12月) |
1894.8時間 |
下関 |
11.1(6月) |
6.2(10月) |
1684.3mm |
287.1mm(7月) |
60.2mm(12月) |
1880.5時間 |
八幡 |
12.4(6月) |
7.6(10月) |
1729.3mm |
299.9mm(7月) |
68.0mm(12月) |
1825.1時間 |
太平洋側気候(南海型)が少し加わる地域
瀬戸内海周辺で降水日数の最多月が夏季、最少月が冬季で、夏季と秋季に南からの季節風の影響をある程度受ける地域。台風襲来時に降水量が顕著に多くなる傾向があり、降水量のピークが梅雨時と秋雨時の明確な二峰性を示さない。
最多月降水日数 |
最少月降水日数 |
年間降水量 |
最多月降水量 |
最小月降水量 |
8月降水量 |
年平均日照時間 |
|
徳島 |
11.8(6月) |
4.6(12月) |
1453.8mm |
210.0mm(9月) |
38.9mm(1月) |
172.9mm |
2092.9時間 |
大分 |
12.0(6月) |
3.8(12月) |
1644.6mm |
273.8mm(6月) |
34.4mm(12月) |
172.2mm |
2001.8時間 |
中央高地式気候・東海型太平洋側気候が少し加わる地域
降水日数の最多月が夏季、最少月が冬季で、降水量は梅雨時、秋雨時を除いて少ない。盆地や内陸部にある為に日照時間が多くなく、寒暖の差も大きい。日本海に近く、冬の降雪日数と降雪量がやや多い傾向がある。
最多月降水日数 |
最少月降水日数 |
年間降水量 |
最多月降水量 |
最小月降水量 |
8月降水量 |
年平均日照時間 |
|
奈良 |
11.7(6月) |
6.1(12月) |
1316.0mm |
188.8mm(6月) |
47.3mm(12月) |
111.8mm |
1823.0時間 |
京都 |
11.6(7月) |
6.3(12、1月) |
1491.3mm |
220.4mm(7月) |
48.0mm(12月) |
132.1mm |
1775.1時間 |
上野 |
12.1(6月) |
6.3(12月) |
1363.9mm |
195.4mm(6月) |
42.6mm(12月) |
90.9mm |
1765.9時間 |
大津 |
12.6(6月) |
7.1(1月) |
1529.7mm |
229.2mm(6月) |
50.4mm(12月) |
142.8mm |
1816.0時間 |
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、
日本の畿内
日本では、畿内とは以下の5国である。近現代の行政区分では、奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に当たる。なお畿内という地域概念は現在でも存在し地方分権などの行政区分や観光などの産業分野でしばし取り上げられる。
五畿・五畿内とも呼ばれる。ただし、716年に和泉国が河内国より分離される前は、四畿・四畿内といった。中国とも称される[1]。
歴代の皇居のほとんどがこの地方に置かれた。
畿内国
646年に発せられた改新の詔には、「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」という畿内の範囲に関する記述がある。ここにいう「畿内」はのちの4、5国をさす畿内ではなく、大和を中心に四囲を示した「畿内国」として定めたと考えられる。このように、畿内の範囲は646年(大化2)当時皇居が置かれていた難波宮(現在の大阪市)、またはより古くから大王の宮殿の多くが置かれた奈良盆地を基準に決められたと考えられる。
中央集権制の下で、貴族が朝廷の許可もなく、畿内の外に出る事は律令法によって禁じられていたが、794年に山城国の畿内北東端にあたる平安京に遷都されて以後は、平安京から山一つ越えただけの近江国や丹波国へ出る事が禁じられ、平安京から数日かかる和泉や大和南部の方が規制が緩いという矛盾が生じていたという。なお、江戸幕府の法令で重追放を受けた場合の立入禁止地域には近江・丹波は含まれていなかったが、京都で事件を起こした者に対してのみは例外的にこの両国と河内国も含むこととされている。
類似の地域名
江戸時代以降の呼称。本来京都(あるいは京都の方向)を指すが、大阪を含む広い範囲をも指す。
上方舞や上方落語など、近世以降の上方文化に関わってよく用いられる。
畿内を含む府県とその隣接県。通常、大阪府・兵庫県・京都府・奈良県・三重県・和歌山県・滋賀県の2府5県を指す。
近畿の中央部。首都機能移転候補地である三重・畿央地域などと用いられる。
「近畿」または「京阪神」と同じ範囲を指して用いられることが多いが、西日本を広く指す場合もある。
「京阪神」は経済用語や俗称としての色が濃いのに対して、「畿内」は歴史地理学用語としての色が濃い。
邪馬台国の所在地について、九州説に対峙する説は、「畿内説」と呼ばれる。この説で実際に所在地とされているのは、主に大和の奈良盆地である。
畿内 東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道
中国の畿内
古代中国では、天子の居城(都)から500里(約202キロメートル。周代の1里 = 約405メートル)以内の範囲。天子が直轄した。畿甸(きでん)とも。
紀伊水道
紀伊水道(きいすいどう)は、和歌山県、徳島県、兵庫県淡路島によって囲まれる海域。東西・南北とも約50km。
名称の由来は、水道に沿って東部に位置し、かつての行政区画だった令制国の一つ、紀伊国(きいのくに)に因る。
地理
法的には瀬戸内海の一部とされているが、地理や気候様式などから太平洋(フィリピン海)側とされていることが大半である。 各県が面する海岸は以下の通り。
一部は瀬戸内海国立公園に指定されている。
大阪湾とは紀淡海峡(友ヶ島水道)で、播磨灘とは鳴門海峡で結ばれ、阪神方面や瀬戸内海から太平洋へ抜ける重要な航路が通じる。
紀伊水道に流れ込む主な川
主な島
沿岸部の産業
農業[編集]
沿岸が概ね山がちなため、米作は小規模。伝統的に「有田みかん」等のミカン栽培が中心となっている。
工業
戦前から和歌山県和歌山市沖には、住友金属工業(現、新日鐵住金)の和歌山製鉄所や花王の和歌山工場が、戦後になると同県海南市(旧・海草郡下津町)に石油精油所(現東燃ゼネラル石油和歌山工場、丸善石油(現コスモ石油))が建設された。
水産業
沿岸には漁港が点在している。
沿岸の特産品
大阪湾
大阪湾(おおさかわん)は、大阪平野と淡路島の間に位置する湾。
古称・別称は茅渟の海(ちぬのうみ)、和泉灘(いずみなだ)。
概説
「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議:内閣官房都市再生本部事務局、国土交通省、農林水産省、経済産業省、環境省、大阪府などの沿岸自治体)では大阪湾を、田倉崎(和歌山市)と生石鼻(淡路島)を結ぶ線(紀淡海峡)、松帆崎(淡路島)と朝霧川河口左岸(明石市)を結ぶ線(明石海峡)及び陸地によって囲まれた海域、と定義している。
瀬戸内海の最東端で、おおむね淀川の延長線上に約60kmの長軸、直交して約30kmの短軸をもつ楕円形をしており、明石海峡で播磨灘に、紀淡海峡で紀伊水道に通じる。水深は淡路島側が深く、明石海峡から紀淡海峡へ約1ノットの潮流が生じている。
大阪平野側では時計回りに神戸港・尼崎西宮芦屋港・大阪港・堺泉北港などの大規模な港湾が並び、沿岸部は阪神工業地帯を形成している。埋立造成も盛んに行われ、神戸空港・ポートアイランド・六甲アイランド・夢洲・舞洲・咲洲・関西国際空港などの人工島がある。また、最終処分場として大阪湾広域臨海環境整備センター(大阪湾フェニックスセンター)が設置され、近畿2府4県の160を超える自治体が共同利用している。
夏場には北東側を中心に溶存酸素が低くなり、2010年8月3日を中心に行われた「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議)による水質一斉調査では、東側岸近くで溶存酸素量 ( DO )が低い状態としている。一方、冬場には南部を中心に窒素やリンといった栄養塩の濃度がノリやワカメが成長出来なくなるほど低くなっており、大阪湾環境保全協議会の国への要望の中で、「貧栄養」に対する調査研究の推進を求めている。
近年、瀬戸内海全体で激減したとされる天然記念物のスナメリ(小型のイルカ)が、関西国際空港周辺に定着し始めているとの情報が調査を元に得られた。ハセイルカも現れ、他の動物も現れる事もある。観察記録はないが、絶滅危惧種のナガスクジラの漂着が相次いだり、北極圏にしか生息しないホッキョククジラが迷入したこともある(同種の迷入では世界最南端の記録である)。
歴史
交易の海
古称の「茅渟の海」は、日本神話の神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっている。
武庫川・猪名川・淀川・大和川・大津川などの河川が栄養を運ぶほか、明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。
瀬戸内海航路の起点として、淀川の河口には難波津や住吉津などが置かれ、シルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使や遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄え、飛鳥・平城京・平安京へ水運でつながりさらに陸路で東日本へつながっていた。また国が対外的に開かれた時は難波宮や難波京、福原京(計画)などの都が置かれた。
淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて天皇が即位する際に斎行されていた八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。平安時代後期においては、渡辺綱(源綱)を祖とする渡辺氏が、滝口武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、瀬戸内海の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の松浦氏である。
平安時代末期には平清盛が大輪田泊を修築拡大して日宋貿易の拠点とした。戦国時代には兵庫津・堺港が日明貿易・南蛮貿易で繁栄し、江戸時代には安治川口・木津川口が繁栄して北前船・樽廻船・菱垣廻船などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。
海軍省や海上保安庁が刊行する海図においては、1954年まで別称の「和泉灘」と表記されており、以降も1966年まで「大阪湾(和泉灘)」と併記されていた。
景勝地
淀川以南には、住吉の浜や高師浜など白砂青松の砂浜海岸が延々と続き、景勝地として多くの和歌などに詠われた。天智天皇の子の長皇子が住吉の浜の霰松原の美景を歌った和歌があり、風光明媚の典型図柄の一つとされる「住吉模様」は、住吉大社の社前の景色を図案化したものである。堺以南には明治以降に多くの海水浴場が設置され、海浜リゾート地として賑わっていたが、高度成長期に工業化にともなう水質悪化や埋め立てなどでほとんど姿を消した。
現在の景勝地としては大阪湾を俯瞰できる六甲山地の掬星台が日本三大夜景の一つとして広く知られる存在である。
工業地帯と将来
大阪や神戸周辺の湾岸は第二次大戦前からの工業地帯で永らく日本最大の重工業集積地であったが、多くの工場が老朽化などで拠点工場としての地位を各地の新しいコンビナートに譲っている。また堺泉北臨海工業地帯などの比較的新しい重厚長大型コンビナートも1980年代以降の産業構造の変化に対応しきれない状態があった。現在は官民協力で湾岸の再生が構想されておりシャープが堺市堺区の新日本製鐵堺製鐵所の高炉跡に液晶パネル工場、パナソニックが尼崎市にプラズマパネル工場を建設している。また、パナソニックが大阪市住之江区の関西電力大阪発電所跡地に、三洋電機が貝塚市にリチウムイオン電池工場を建設している。堺市付近は新エネルギーの開発拠点ともなっており、堺市西区にはバイオエタノール・ジャパン・関西の稼動、関西電力による大型太陽光発電所が建築中である。
環境問題
播磨灘
播磨灘(はりまなだ)は、瀬戸内海東部の海域。兵庫県南西部(旧播磨国)の南側に位置し、東は淡路島、西は小豆島、南は四国で区切られて西北部に家島諸島がある。
面積約2500 km2。深さ40 m前後であるが、海峡部では100 mを越えるところもある。近畿地方から中国地方・四国地方・九州地方方面への重要な航路が横断する。
岩礁が多く、鯛などの好漁場。イカナゴもよく獲れ、イカナゴの釘煮(佃煮)は播州の特産品であったが、海砂の採取によってイカナゴの生息地が打撃を受けたことから減産している[1]。
播磨灘に流れ込む主な川
播磨灘に面する島
備讃瀬戸
備讃瀬戸(びさんせと)は瀬戸内海のうち岡山県と香川県の間の海域の名称である。東は小豆島をはさんで播磨灘に、西は笠岡諸島、荘内半島をはさんで備後灘、燧灘に接する。交通の要衝であり、本四架橋(本州四国連絡橋)のうち児島・坂出ルートの瀬戸大橋が南北方向に架けられている。海運においては、本四架橋付近をはじめとして狭い箇所があること、多島海であること、こませ網漁やさわら流し網漁など漁業の盛んな海域であること、関西方面と九州方面を結ぶ東西方向に加えて本州と四国を結ぶ南北方向に航行する船舶も少なくないことなどにより、事故多発地帯の一つとなっており、海上交通安全法により一般の海域と異なるルールが適用される海域になっている。
備後灘
備後灘(びんごなだ)は、瀬戸内海中央部の海域。
概要
東は備讃瀬戸、南は燧灘、西は芸予諸島東部の弓削島、因島に囲まれている。海底は平坦であり、タイ、サワラ、タコ、イカなどの漁が盛ん。古くから瀬戸内航路として役割を持って村上水軍が根拠地とした。尾道、因島には大規模な港が作られて古くから造船業が栄えた。一方、福山市沿岸は埋め立てが進み、JFEスチール(旧NKK)をはじめとする工場が集積する。
福山市鞆の鞆の浦は瀬戸内海国立公園を代表する景勝地で知られる。
燧灘
燧灘(ひうちなだ)は、瀬戸内海中央部、香川県の荘内半島と愛媛県高縄半島の間を占める海域で、四国側を指す。北は備後灘に接する。
東西約60 km、南北約40 kmの海域で、一帯はタイ、サワラなどの好漁場として知られる。沿岸地域から火打石が産出したことからこの名がついた。沿岸は遠浅の砂浜海岸が発達しており、近世までは無数の干潟が見られたが、これらはほとんど戦後になって工業用地造成のために埋め立てられた。しかし、今治市の唐子浜や桜井海岸、西条市の河原津、観音寺市の琴弾公園など自然の砂浜は僅かに残存している(全て瀬戸内海国立公園に含まれる)。
沿岸の主要都市 東から順 三豊市 観音寺市 四国中央市 新居浜市 西条市 今治市
愛媛県 新居大島 四阪島 比岐島 平市島 江ノ島 魚島 瓢箪島 高井神島 豊島 百貫島 弓削島 佐島 生名島 岩城島 赤穂根島 津波島 大三島 伯方島 鵜島 大島 横島 九十九島 大突間島 津島 武志島 中渡島 馬島 小島
安芸灘
安芸灘(あきなだ)は、瀬戸内海西部に位置する海域。芸予諸島以南、防予諸島以北を指す。斎灘との境界は曖昧で、現在は斎灘を含むことが多い。 最狭義では周防大島の北側、倉橋島の西側の南北50km、東西30kmの狭いエリアをさすが、高縄半島の北西にある斎灘との境界があいまいで、一般的には倉橋島の西側の中島-大崎下島のあたりまで含む、斎灘を含めることも現在では多い。本州と四国を結ぶ航路が幾つも重なり、瀬戸内海でも特に船舶通航量の多い海域である。また、海底地形は凹凸が多く、水産資源に富み、タイ、サワラなどを漁獲する延縄漁が知られる。
2001年3月24日にはマグニチュード6.9の芸予地震が発生し、広島市や呉市、今治市で家屋の損傷など多数の被害を出した。近辺は南海トラフがフィリピン海プレートに向かって沈み込む位置にあり、古くから地震活動が盛んである。
広島湾
広島湾・似島 厳島獅子岩展望台から東方向を望む。
広島湾(ひろしまわん)は、広島県南岸に位置する湾である。瀬戸内海に位置し、小さな島が多く、一部がリアス式海岸。
地理など 瀬戸内工業地域に位置し、造船・鉄鋼業が盛んで、広島港では、工業原料の輸入、製品の輸出が行われる。 世界遺産の厳島神社があり(日本三景では安芸の宮島)、また、カキの養殖が盛ん。広島湾系江田島湾をもつ。
島 金輪島 峠島 似島 絵の島 大奈佐美島 小黒神島 能美島 江田島市役所在所 東能美島 西能美島 東能美島と地続き 江田島 東能美島と地続き 大黒神島 倉橋島 情島 阿多田島 猪子島厳島(宮島) 世界遺産在所 長島沖野島甲島
伊予灘
伊予灘(画面中央の豊予海峡より北の海域)
伊予灘(いよなだ)は、瀬戸内海西部の海域。愛媛県松山市、山口県の周防大島、大分県の国東半島に至る海面を指す。
概要
「領海及び接続水域に関する法律」の区分では別府湾を含み、大分県の姫島と山口県の祝島を結ぶ線を境界として周防灘に、豊予海峡を境界として豊後水道に接する。
海底部は至って平坦な地形が続き、太平洋の外洋水が入り込みやすい。そのためイワシやサバ、アジなどの好漁場となっており、速吸瀬戸など潮流が速い所で獲ることから、身が締まって味のいい魚介類が獲れる。
気候は瀬戸内海式気候に属しており晴天の日が多く、年間降水量も少ない。冬は関門海峡からの北西の季節風の影響を受けるため、雲が広がりやすい。
また、佐田岬と佐賀関半島を結ぶ線のやや北、海底に中央構造線が通っているため活断層が多く、地震が多数発生する地帯としても知られる。
周防灘
周防灘(すおうなだ)は、瀬戸内海南西端に位置する海域で、瀬戸内海に数ある灘の中で最も範囲が広い。北は山口県南岸、東は熊毛半島南端から屋代島、西は関門海峡に至る線で区切られる。南は大分県の姫島と山口県の祝島を結ぶ線を境界として伊予灘に接する。東部ほど深度が深く、西へ向かうに連れて浅くなる。また福岡県北東部と大分県北部の旧豊前国に属す地域では豊前海と呼ばれる。
気候は瀬戸内海式気候に属している。晴天の日が多く、降水量は比較的少ない。冬は関門海峡からの北西の季節風の影響を受け、雲が広がりやすく雨・雪を降らせる事があるなど、日本海側気候の特徴も見せる。しかし、季節風は山地で抑えられるため、沿岸の波は穏やかで海が荒れることは少ない。九州北部から中国地方西部を強い台風が通過する際には、沿岸部が顕著な高潮に見舞われることがある[1]。
また宇部市の沖には地震の引き起こす恐れのある断層帯(周防灘断層群)の存在が明らかとなっており[2]、主要活断層に指定されている。
環境
北九州市の曽根干潟、大分県中津市の中津干潟、宇佐市の和間海岸などの広大な干潟が存在し、良好な環境が保たれていることが知られている。これらの干潟には絶滅が危惧されるカブトガニなどの生物が生息しており、貴重な野鳥が数多く飛来することでも有名である。
漁業
漁業が盛んで、沿岸ではカレイ、ブリ、マアジ、マダイやサバなどの漁獲量が多い。また、西部ではカキ、海苔の養殖も盛んに行われている。有明海など日本の暖温帯域の、広大な浅海や干潟を擁した内海のほとんどは、今日開発や汚染などで生態系が著しく破壊された状態にあるが、周防灘は例外的に良好な環境が多く残存していることも知られる。日本のほとんどの産地が壊滅状態にある、在来の真のハマグリの個体群が生き残っている干潟も、周防灘で発見されている。
工業
沿岸の一部は太平洋ベルト地帯に含まれ、山口県東部の石油コンビナートは瀬戸内工業地域の一郭を成す。関門都市圏(山口県西部、福岡県東部、大分県北部)周辺地域は北九州工業地帯を成し、セメントや化学工業のほか、近年は自動車産業の集積も見られる。
豊後水道
豊後水道(画面中央の豊予海峡より南の海域) 豊後水道
手前が関崎で左手奥が佐田岬。右手の島は高島
豊後水道(ぶんごすいどう)は、九州の大分県と四国の愛媛県に挟まれた水道である。北で瀬戸内海(伊予灘)、南で太平洋(フィリピン海(日向灘))に接する。ただし、豊後水道北部を瀬戸内海に含めることもある。また、愛媛県に近い水域を宇和海(うわかい)と呼ぶ。
豊後水道が最も狭くなった部分が、大分県大分市(旧佐賀関町)の関崎と、愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬の間の豊予海峡であり、その海峡の幅は約14kmである。
かつてはニタリクジラまたはカツオクジラ(現在でも土佐湾に定住する)を始め多くのクジラが見られたとされ、現在でもハンドウイルカ、ミナミハンドウイルカ、ハセイルカの3種類のイルカが定住する。
水深再測量
2009年(平成21年)10月3日、海上保安庁に豪船籍のLNGタンカーから海図に記載のない浅い地点があると通報があった。同庁が直後に航行者に対して航行警報を発するとともに、同月12日に測量船「海洋」を緊急派遣し測量した結果、従来海図上で水深約90m程度とされていた地点に直径約400mの地形的な高まりが発見され、最も浅い部分で水深約35mと判明。同月22日に新たに水深が判明したことと、あわせて船舶航行の安全性に問題はないことが発表された。
発見された海域周辺は1940年(昭和15年)に測量されたが、当時の技術的制約によりこの地点の存在は知られていなかった。
響灘
響灘 (ひびきなだ)は、関門海峡の北西に広がる海域であり、北東側は日本海に続き、西側には玄界灘が隣接する。
定義
現代の日本における一般的な定義では山口県長門市の川尻岬から関門海峡西口を経て福岡県宗像市の鐘ノ岬、地島、大島に至る海域を指すとされている[1]。
響灘と玄界灘
「響灘」は" ひぢきの灘 " が長い年月を経て〝 ひびき(響)灘〝 にかわったものであるという説がある。「昨日こそ 船出はせしか 鯨魚(いさな)取り 比治奇(ひぢき)の灘を 今日見つるかも」(3893 万葉集 巻第十七 読人知らず) 古代ではこのあたりはひじき (海藻の一、食用)、わかめなどの海産物が多く採れることで知られ、これらの海産物が平城京(奈良の都)へ献上された記録が残っている。 「玄界灘」の初出は江戸時代の辞書『書言字考節用集』(槇島昭武著1717年(享保2年)以前初版)。九州の北限の海を漠然と指す。日本海の一部で、大韓民国や日本の島根県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県に面しており、広さは不確かだが約13,000平方キロメートルである。韓国では「玄海灘」(ヒョンヘタン)と呼ぶ。何となく九州側から見た海を玄海灘という言葉を当て、中国地方毛利藩側から見た海を響灘と言う。後に、行政区分上名称に区切りをつけたため混同されるが、重なる領域があるのはこの理由からである。
沿岸部
下関市の西部の北浦海岸が響灘に面し、国道191号沿線に安岡、吉見、室津など良好な漁港が点在している。北九州市の沿岸部は、大規模工場が集積する北九州工業地帯を形成しており、北九州学術研究都市、北九州港の一郭を成している。また、漁業も盛んであり、玄界灘と同じく日本有数の漁場である。響灘では鯖、鯵、イワシ、フグ、ウニなどの魚が水揚げされる。その他に浜田・仙崎・豊北・若松・芦屋・波津・鐘崎などの沿岸部には釣りの名所と知られる場所も数多く存在する。海水浴場も所々に点在し、夏季の海水浴シーズンには周辺から海水浴客が訪れる。 沿岸部の気候は温暖であり、冬は対馬海流の影響で霜柱が立つことは無いが雲が発生しやすいため、曇天の日が多く、雨や雪を降らせることもある。日照時間も非常に短く、北西の季節風の影響で肌寒く、波は穏やかで荒れることは少ない瀬戸内海側とは違い、季節風の影響を強く受けるため、海が荒れることも少なくない。
響灘に位置する主な島々
見島(みしま) - 山口県萩市 青海島(おうみしま) - 山口県長門市 角島(つのしま)- 山口県下関市 蓋井島(ふたおいじま)- 山口県下関市 六連島(むつれじま)- 山口県下関市 竹ノ子島(たけのこじま)- 山口県下関市 藍島(あいのしま)- 福岡県北九州市小倉北区 馬島(うましま)- 福岡県北九州市小倉北区 白島(しらしま)- 福岡県北九州市若松区 地ノ島(じのしま)- 福岡県宗像市 大島(おおしま)- 福岡県宗像市
豊予海峡
愛媛県佐田岬(右側)と大分県関崎(左側)に挟まれる豊予海峡
豊予海峡(ほうよかいきょう)は、大分県大分市(旧佐賀関町)の関崎と愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬によって挟まれる海峡。速吸瀬戸(はやすいのせと)とも呼ばれる。
概要
海峡の両側に位置する大分県及び愛媛県の旧国名である豊後国及び伊予国から1字ずつ取って豊予海峡と呼ばれる。
豊後水道の中で水路が最も狭い部分で、伊予灘との境界にあたる。海峡幅は約14km、最大水深は約195m。日本最大の断層である中央構造線が走る。佐賀関港と三崎港の間に、国道九四フェリー(国道197号)が運航されている。
豊予海峡は好漁場として知られており、潮流が速いことから、獲れる魚は身が引き締まり脂がのっており、市場での評価が高い。特に、佐賀関港に水揚げされるアジとサバは、魚自体の品質の高さに、魚を傷めない一本釣りの漁法や面買い、活け締めによる鮮度保持、厳格な品質管理が相まって「関あじ」、「関さば」として全国的に有名な高級魚のブランドとなっている。なお、三崎側で水揚げされたアジやサバは「岬あじ」(はなあじ)、「岬さば」と呼ばれ、より安価で取引される。
歴史
『古事記』や『日本書紀』においては、神武天皇が東征の途上で速吸門を通ったときに、国つ神の椎根津彦が現れて航路を案内したとの記載があり、この速吸門が豊予海峡のことであると考えられている。ただし、『日本書紀』では経路に地理的整合性があるものの、『古事記』では九州を出て吉備国の高島宮に滞在した後に速吸門を通ったとされており、整合性を欠く。佐賀関には椎根津彦をまつる椎根津彦神社が残っている。
太平洋新国土軸豊予海峡ルート
豊予海峡は、太平洋新国土軸上に位置しており、四国・九州間を連絡する架橋や海底トンネルなどの交通路(豊予海峡ルート)の建設が構想されている。特に1980年代末頃を中心とした一時期、愛媛・大分両県によって豊予海峡トンネルの建設構想が明示され、テレビで特別番組が放送されたことがあった(南海放送・大分放送『豊予海峡~九四トンネルへの挑戦~』、1989年12月2日放送)。また、鉄道と併設し、「四国新幹線」を建設し、九州側の「九州横断新幹線」と直通運行する計画もある。
しかし、国や両県の財政事情、海峡付近の地質構造などが障害となり、この構想は棚上げ状態となったままである。広瀬勝貞大分県知事は、就任直後の2003年4月に豊予海峡ルートの事業見直しを明言し、事実上の凍結を表明している。また、これを受けて、愛媛県側でも推進事業の縮小が行われている。
鳴門海峡
鳴門海峡(2000年5月)
鳴門海峡(なるとかいきょう)は淡路島(兵庫県南あわじ市)と四国の大毛島・島田島(ともに徳島県鳴門市)の間にある海峡。播磨灘と紀伊水道を結ぶ。日本百景に選定されている。大鳴門(おおなると)とも。
概要
淡路島側の門崎(とさき)と四国側の孫崎とを結ぶ海峡最狭部の幅は約1.4kmで、「中瀬」と呼ぶ浅瀬と裸島(ともに大鳴門橋の橋脚が立つ)の間の深さは約90mである。この最狭部の北側には深さ200m、南側には深さ140mの海釜(かいふ)と呼ばれる深みがある。海峡を挟む播磨灘と紀伊水道の間の潮時差がほぼ正反対で、両水域の潮位差は大潮の時で1.5mにも及ぶことから、最大流速は11kt (20km/h)になる。これは日本国内で最も速い潮流である。有名な鳴門の渦潮はこの最狭部の下流側に現れ、大きいものでは直径15mにもなる 。
海峡は主要航路ではあるが可航幅が約500mと狭く、強流時などには通峡を見合わせて潮止まりを待つように、徳島海上保安部が船舶に注意を促している。2002年から2006年の5年間で裁決のあった海難事故は15件で、そのうち8件は大鳴門橋直下で、うち5件は強潮流による圧流や操船不能などが原因となっている[2]。
渦潮を間近で見るための観潮船が淡路島側と鳴門側から運航されている。この最狭部に架けられている大鳴門橋にも遊歩道「渦の道」が設けられていて、真上から渦潮を観察できるようになっている。
鳴門海峡(大鳴門)の西側には小鳴門海峡(小鳴門・撫養の瀬戸 - 四国本島と大毛島・島田島の間の延長8km、最狭部の幅110mの水路状)がある。
自動車専用道路である大鳴門橋の架橋から10年後の1995年(平成7年)、唯一残っていた淡路フェリーボートの阿那賀~亀浦航路が休止され、その後廃止されたため、原動機付自転車等は渡海できなくなった。